可愛い下着があるのはこの人のおかげ!?鴨居羊子さんのこと

2016/06/13

ランジェリーショップに行くと、色とりどりの可愛いブラやショーツで溢れています。今ではすっかり当たり前ですが、以前はあり得ない光景だったことをご存じですか?

昭和前半の日本女性たちは皆、下着というものを意識せず過ごしていました。ましてや、ブラやショーツでオシャレをするなんて考えたことも無いという人が大半の時代。では、いつから現在のような可愛い下着が出てきたのでしょう?

その歴史をひも解いていくと、一人の女性につきあたります。それが鴨居羊子さんという人。

かなり魅力的で興味深い女性だったようです!女性下着の歴史を振り返りながら、鴨居さんの人生や下着への信念をちょっと覗いてみませんか?

昔の女性はどんな下着をつけていたの?日本の女性下着の変遷

かつて日本人女性は、みんな着物を着て日常を過ごしていました。そのため、昔の女性と、洋服が当たり前の現代女性とでは、着ける下着も全然違っていました。

いつ頃からどんなふうに女性の下着が変わってきたのか、まずはその辺りについて軽く知っておきましょう。

着物にノーブラ・ノーパンの時代

日本人の下着の始まりは卑弥呼の時代にさかのぼるようですが、今回はもう少し後の方からお話したいと思います。

古来から戦後までという長い間、日本人女性が当たり前に着物を着る時代が続きました。

着物には腰巻や肌襦袢を合わせるため、ブラやショーツという概念がない時代が長く、日本人女性はノーブラ・ノーパンが普通でした。

海外からショーツがもたらされても、着物だと下着の線が出てしまうため品がないということで、広まることはありませんでした。

また、バストの大きい女性は着物が着づらいだめ、さらしを巻いて胸を押しつぶしていました。

そして胸が小さい女性はそのまま肌襦袢を着ていたので、ブラジャーというものも必要なく、誰もそんなものはつけていませんでした。

白木屋火災

そんな中、女性下着が広まるきっかけとなった事件が起こります。昭和7(1932)年12月16日、東京日本橋にあった白木屋百貨店で、火災が発生したのです。

東京日本橋の白木屋百貨店火災

ところでこの火災は、高層建築物の火災という、新しい問題を消防当局に提起しましたが、一方では、日常生活での女性の下着着用の必要性等が、叫ばれることともなりました。

それは、上層階から綱にすがって脱出しようとしていた女性の何人かが、裾がめくれるのを押さえようとして綱から片手を離したため、体重を支えきれなくなって墜落死したことが契機となって、それまで日本の婦人が着けていなかった下ばきを、着用するようになったからです。
引用元:東京消防庁 消防雑学事典

火災による死者が1人にとどまったにもかかわらず、墜落死が13人もいたということから、当時の女性がほとんどノーパンだったことや、悲しくも女性としての恥じらいを命よりも優先する風潮が強かったことが推測されます。

この火災をきっかけに女性は徐々に下着を身に付けるようにはなってきましたが、一般的に普及するにはまだまだ時間がかかりました。

着物から洋装へ

女性が現在のような形のブラやショーツを身に付けるようになったのは、着物よりも洋装が一般的になってから。

それは戦後のことでした。洋服には肌襦袢などは合いませんし、胸を覆うためにもブラやショーツが必要となりました。

しかし、洋装になってからも、下着と言えば「乳房バンド」「ズロース」などと呼ばれるもので、白の木綿やメリヤス素材が中心の素朴なものでした。

リボンやフリルなどの装飾や、カラフルな色付きの下着は、性産業の女性が着けるもので「下品」「ふしだら」というイメージが強かったのです。

色付き下着が登場!

ヨーロッパでは昔から、下着は女性を彩るもの、自らを表現するものとして綺麗な色やデザインが当たり前でしたが、日本では上記のように、下着をつけない時代が長く、普及してからも白しかありませんでした。それどころか、下着に凝るなんてはしたないという意識が強かったのです。

そのような時代に、鴨居羊子さんという人が登場します。

昭和30年代初頭に、カラフルで装飾的かつ実用的な下着を作って世に放ったのです。そこから、現在の日本女性が当たり前に身に付けている、キレイで可愛い下着の歴史が始まったのです。

強い信念と豊かで独特な発想…鴨居羊子さんの興味深い人生

最近の若い人たちには耳慣れないお名前かもしれませんが、今でも年配の女性なら「鴨居羊子」という名は、胸を躍らせながらキレイな下着を買いに行った甘酸っぱい記憶とともに思い出されるもののようです。

日本の女性下着に革命を起こしたと言っても過言ではない、鴨居羊子さん。いったいどんな人だったのでしょうか?

父の跡を継いで新聞記者に


鴨居羊子

参照元:tunic

鴨居羊子さんは、1925年の大阪で新聞記者のお父さんのもとに誕生します。お父さんのお仕事の都合で幼少期を金沢で、小学校5年生から女学校3年生までを京城(現在の韓国ソウル)で過ごし、再び大阪へ戻ります。

明治生まれのお母さんから、厳しく古めかしい躾をされながらも、好奇心旺盛で物語や絵をかくことが好きな少女に育ちます。

美術家を志しながらも、お兄さんの戦死やお父さんの病死という悲しい出来事を乗り越え、お父さんと同じ新聞記者になります。

最初は小さな夕刊紙、後に大手の新聞社に移り、刺激的で面白い人間関係を築きますが、「ものづくりがしたい」と思い立ち、新聞社を辞めます。

「チュニック」誕生!

鴨居さんは新聞記者を辞めて、すぐに下着づくりに取り掛かります。「ものづくりがしたい」と会社を辞めたのだから、お鍋でもおもちゃでもよかったと鴨居さん自身が言う中で、なぜ下着だったのか。

人間が動物と違うのは衣服を着るからで、その中で一番ヒフに近くて原初的なのが下着。人間を人間たらしめているものの中で一番肌に近くて、なおかついろんな感情を生み出し得るのが下着だと、鴨居さんは考えました。

「チュニック」というのが鴨居さんが作った下着屋さんの会社名ですが、この屋号にもそんな鴨居さんの哲学が込められています。

チュニックって、今では可愛くて体型カバーもバッチリの女性の服として定着していますが、元々は古代ギリシャやローマの人々が初めて着た貫頭衣のことなんです。

貫頭衣

参照元:Wikimedia Commons

人が身に付けるものとしてもっとも基本的なものという意味もあるうえに、言葉の響きも可愛いということで、1955年(昭和30年)の冬、「チュニック」という下着のデザイン&制作会社が鴨居羊子さんによって誕生したのです。

日本初の色付き下着!

鴨居さんがチュニックを設立した約半年後の昭和31年7月、「もはや戦後ではない」というセリフが世を賑わしました。とはいえ、日本女性の意識はまだまだ保守的で、下着は絶対的に白でした。

そんな時代に鴨居さんは、紫、ピンク、緑といった色とりどりの、キラキラした装飾やリボンなどがついたブラやショーツ、スリップやガーターベルトなどを発表します。

白のズロース一辺倒だった時代に、「スキャンティ」「ペペッティ」という可愛い言葉で女性下着を表現しました。

当初は斬新すぎてすぐには受け入れられず、鴨居さんは厳しいお母さんに下着を作っていることすら内緒にしていたほど。

それでも、個展をしてその下着に込められたスピリッツを理解してくれる人だけに売るという鴨居さんのやり方を高く評価する声も多く、チュニックの下着は徐々に広まっていきます。

鴨居さんが時の人に!

鴨居さんの情熱は、下着づくりだけにとどまりません。

下着を創造するかたわら、羊子はフラメンコを習いに行ったり、美味しいものづくりを研究したり、野良犬や野良猫を家に招いたり、さらには「少しでもライオンの気持ちをわかりたい」といって髪の毛を金色に染めたり(昭和30年代で!)、世界各地を旅行するなど、自由奔放な生活を送っていました。そんな日常をエッセイにまとめ、数多くの作品を残しています。
引用元:チュニック株式会社

これを読むだけでも、鴨居羊子さんという人がいかに面白い人物だったかが分かるような気がしますね。

エッセイの名手だったことは、その著作を一読すれば分かります。そのほかにも、絵画作品や人形制作にも精を出していました。チュニックのキャラクターも鴨居さんの描いた女の子の絵です。こうして鴨居羊子さんは、有名人となりました。

創作意欲は衰えぬまま、鴨居羊子さんは1991年に66歳でこの世を去りました。鴨居さん亡き後も「チュニック」は、現在も創立当初の信念を継承し、下着はもちろんナイティや小物も販売する会社として発展し続けています。

「綺麗な下着は下品」という既成概念を打破!鴨居さんの下着哲学

鴨居羊子さんの生涯をざっと振り返ってみましたが、興味が湧いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。鴨居さんが多方面の才能を持つアーティストであったことは間違いないですが、やはりここでは日本女性の下着に革命を起こした人という面に注目したいと思います。

鴨居さんが、下着づくりを通して表現したかった思いについて、考えてみましょう。

既成概念への反発

鴨居さんが輸入物のピンクのガーターベルトを買ったとき、お母さんに「お嫁に行くまでしまっておきなさい」と言われたというエピソードがあります。

これが当時としては当たり前の意識で、嫁入り前の生娘がカラーの下着を身に付けるなんてはしたないという考えが浸透していました。

このような、「女性の下着は白」ということに象徴される、女性は奥ゆかしいものという既成概念に、鴨居さんは反発します。また、メリヤスシャツとズロースの上にスリップやシュミーズを重ねて着るという、動きにくくて実用的ではない下着の着方にも、批判的な目を向けます。

当時は一応、高級な絹の下着もあることはあったけれど、お洒落だけど寒くて実用的ではないということで、一般に広く普及はしていませんでした。そこで鴨居さんは、きれいでお洒落なことと実用性を両立した下着は作れないものかと考えます。

このような反発心や既存の下着への物足りなさが、下着デザイナーとしての鴨居さんの出発点だったのです。

下着を通して訴えたかった想い

お母さんに「しまっておきなさい」とたしなめられたピンクのガーターベルトを、鴨居さんはもちろん箪笥になど入れず、翌日すぐに身に着けます。外側には黒い質素なセーターを着ていても、肌にきれいなピンクのガーターベルトを着けているというだけで、鴨居さんの心は踊ります。

スカートをパッとめくるとお気に入りの下着が目に入って嬉しいため、トイレに行くのも楽しみに感じます。こんな可愛い下着をつけているという密やかな、女性ならではの喜びは、今の時代の女性ならみんな感じていることですよね。

でも昭和30年頃の日本人女性は、そんな喜びを感じられる機会すらなかったのです。下着で自分を表現したり、気分を上げたりするという今では当たり前のことを、日本で最初にはっきりと目指した女性が鴨居羊子さんだったのです。

独特の販売方法

そんな反発心と理想を胸に、鴨居羊子さんはとびきり可愛い下着を作ります。

そうして出来上がった下着を、まずは個展を開いて見てもらい、実物を見て気に入った人に注文をしてもらうという方法で売っていきます。

最初の個展の招待状につづられた案内文を引用します。

「下着は白色にかぎる──ときめこんだり、ひと目につかぬようにと思ったり、チャームな下着は背徳的だと考えたり、とかく清教徒的な見方が今までの下着を支配してきたようです。私はこうした考え方に抵抗しながら、情緒的で機能的なデザイン、合理的カッティング…などをテーマに制作してみました」
引用元:チュニック株式会社

鴨居さんの個展に来場したお客さんの中には、色付きで美しい下着をはしたないもののように扱う女性もいました。鴨居さんはそんな女性を「カマトト」とばっさり斬り、このような女性にはチュニックの下着を買ってほしくないと考えます。

大量生産ではなく、個展でチュニックの下着を見て、そこに込められた主張までを感じ取って理解してくれる女性にこそ売りたいという鴨居さんの思いによって、このような当時はあり得なかった販売方法となったのです。

当時から大手下着メーカーだったワコールとのコラボレーションも、お金が必要な鴨居さんにはおいしいお話だったにもかかわらず断ったというエピソードからも、彼女の経営理念がよく分かりますね。

下着を愛でよう!

白以外のカラフルな下着を初めて作ったのも、「スキャンティ」などの可愛い呼び名を与えたのも鴨居羊子さんであることは既にお伝えしましたが、チュニックの下着は一商品ごとにもすべてかわいい名前がついているんです。

可愛い語感の造語だけでは足りなくなり、都市の名前やお菓子の名前、いろんな国の王女様の名前などなど、あらゆるところからアイデアをもらい、下着のひとつひとつに名づけをしていったのです。

名前を付けるという行為は、親が赤ちゃんにするように、飼い主がペットにするように、愛しいものへ、その幸せや発展を願ってするものですよね。きっと鴨居さんも大切に作った自分の分身のような下着が、素敵な女性を幸せにしてくれるような一枚になりますように、と無意識にでも思ったのではないでしょうか。

下着への愛。そして、それを身に着ける女性に喜びを感じてほしいという思い。それが鴨居羊子さんの下着へのこだわりの基礎となっているんですね。

可愛い下着をつける喜び!鴨居羊子さんの恩恵を受け継ごう!

私たちが今、いろんな色やデザインの可愛い下着を当たり前に選ぶことができること。軽くて着け心地の良い素材で、一年中快適な下着を身に着けられること。そのおかげで、気分がウキウキしたり、女性ゆえの喜びを感じられること。

これらは皆、鴨居羊子さんのおかげでもあったんですね!

鴨居さんがチュニックを設立してから、今のようにカラフルな下着が普及するまで、平坦な道のりではありませんでした。それを思えば、やはり今の美しい下着を選べる幸せを堪能したいし、後の世代にも引き継いでいきたいですね。

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